1984- 1 1984- 2 1984- 3 1984- 4 1984- 5
1985- 1 1985- 2 1985- 3 1985- 4 1985- 5
1985- 6 1985- 7 1985- 8 1985- 9 1985-10
1985-11 1985-12     1986- 1

参考資料:1985 DCI Score


1984・その1

年齢:15〜16歳
団体名:Peachtree High School Marching Patriots(5年制高校の2〜3年目)
ステータス:音楽と仲間と酒とオンナとXXXにはまってしまった不良外国人
1984年は衝撃的な幕開けだった。バンドのメンバーが、バイク事故で他界してしまった。生まれて初めて友人の葬儀に出た。思春期の身には少々きつい経験だった。事故は週末に起こり、翌月曜の夜に教会でお通夜があった。その後、そいつの家にみんなで行って夜中まで騒いでいた。そして火曜の午前中に本葬。学校がある日だったけど、友人は午前の授業免除。最後の別れをした。こうやって思い出してみると日本の葬式とあまり変らないみたいだ。重たいスタートではあったが、日常はすぐに戻ってくる。「Life goes on」ってやつだな。当時も切ないと思ったけど、同時に仕方ないとも思ったような。でも、今でも奴のことは忘れてないのでそれで許してくれるだろ。

84年の前半はひたすらジャズバンドの営業とコンテストにでかけた。さすが先生アフリカ系。それは置いておいても、先生は相当な時間と労力をジャズバンドに注いでいたはずだ。それまでこの高校では存在しなかったジャズバンドを盛り立てるのに必死だったのではないだろうか。事実、先のクリスマスコンサートでゲスト出演した時のテープがあるが、聞き返すと悲惨な内容だ。それが半年後の定演のテープを聞いていると、見違えるほど上手くなっているのがよく分かる。下手には変わりないが、半年という期間を考えると格段の進歩だ。まあ、あれだけ練習、営業、コンテストを繰り返せば嫌でもそうなるのかもしれない。

3月を過ぎると、それに加えてコンサートバンドのコンテストも開催される。高校では4時間目の音楽の時間をコンサートの練習にあて、放課後をジャズバンドのリハに使うという生活が、う〜ん3ヶ月くらいだろうか。。。とにかく吹いて吹いて吹いて吹いて。。。の時期でしたな。そうそう、その頃には、私はコンサート、ジャズ共トロンボーンで定着するお許しをもらった。ただコンサートは、状況によってユーフォに持ち替えることもたまにあったが。念願のコンバートはとりあえず終了した。

5月に定演。今度は学校の学食を改造した特設ステージで行った。ジャズバンドのゲストにプロのドラマーと、趣味でサックスを吹いている保護者のおじさんが来てくれた。このふたりがブレイクしてしまったために、高校のジャズバンドにしてはむちゃくちゃノリがよいライブに変身した。プロの「Big Dipper」のドラムソロは今聴いてもとてもかっこいい。

これで、バンドの1年間は終了、夏休みに入った。2ヶ月半の夏休みのうち、前半は取りこぼした単位を稼ぐためにサマー・スクールに通い、後半でまたマーチングバンドのリハに出る予定となる。

そうそう、マーチングのシーズンに入る前に、私にとっての大事件がある。



1984・その2

この年、DCIのファイナルがアトランタにやって来た。8月の第3週だったと思う。確か高校はもうキャンプに突入していたと思うのだが、私は学校単位で見に行った。見に行ったはずだ。今までどうも当時の記憶がはっきりしなくて、「テレビで見ていた」記憶と「スタジアムまで見に行った」記憶が混在していたのだが、最近やっと思い出した。私はセミファイナルを学校のバスで見に行っている。そしてファイナルの生中継を、仲間と一緒にテレビで見ていたのだ。だから見に行ったのも、テレビで見たのもどちらも正解。もうアメリカに転校して2年が過ぎていた私だが、相変わらず英会話の方は一向に上達しなかった。「イチロー、DCI見に行こう」「?いいけどDCIって何?」「むにゃむにゃむにゃ(英語が弱かったため分からなかった部分)」こんな、分かったような分からなかったような会話をして学校のバスは一路ジョージア・テックに向かったのだった。今も地方のショウや、ファイナルの開催地でも見かける純情な高校生達(Bluecoatsが出て「ブルー、ブルー」と叫ぶ私に嫌悪の目を向けるあの純情青少年達だ!)のひとりだったのですな、当時の私は。

この日は特別な日になった。私達がいた席はかなり後ろの、40ヤードか35ヤードライン上だったと思うのだが、それでも音はビンビン伝わってきたし、動きなんて自分がやったそれとなんか比べ物にならない。当然、後にいくに従ってグングンレベルが上がっていく訳だから(当時のセミファイナルはリバースオーダーだったと思う)、ただただ驚きの連続である。当然、未だDCIの概念も何も理解していないのだが、「こんな凄いことをやっている人たちがいるらしい」ということが分かったことと、ご贔屓にしていたSpirit of Atlanta(以下SOA)はここで参戦していたんだという、この2点だけは何とか分かった。

ここで私はふたつの衝撃を受けた。

ひとつは、Santa Clara Vanguard(以下SCV)のショウ。それまで私はクラシックの曲がマーチングのレパートリーとなり得ることを全く知らなかった。それだけでも凄い衝撃だったが(笑)、それ以上に「テンダーランド」のエンディングに軽いショックを受けた。あ、こんな終わらせ方もありなんだ、と目から鱗が落ちた気分だった。あのダウンエンディングは、私に限らず当時としては相当画期的な終わり方だったはずだ。このスタイルのエンディングは、3年後にGarfield Cadets(後のCadets of Bergen County、以下GC)が完璧に昇華させてしまうのだが、この時代までは開拓者SCVの面目躍如。この時の体験のせいで、私は未だにコープランドが大好きだ。

そして、とっておきの衝撃はSuncoast Soundのベトナムのショウ。まだ、ガードが「演技をする」というスタイルが定着していない頃の「レクイエム」の演技、観客の涙、そして静かに、いつまでも続く拍手。この後私は現役として、指導者として活動していくのだが、未だにこのショウを超えることはできないし、今後超えられる自信はまったくない。当時はまだベトナムショックが色濃く残っていて、このことについて意見をするのは勿論、「ベトナム」という言葉を口にするのもはばかられる状態、いわゆる「タブー」というやつだった。オリバー・ストーンの「プラトーン」が世に出て、初めてアメリカ人はベトナム戦争と正面に向き合ったのだが、それはまだ2年も先の話だ。客に引かれ、嫌悪感を抱かせるかも知れない危険なショウ。あえてそれを題材に選んだ勇気、逃げずにストレートに反戦を伝えた勇気。自分に果たしてここまで思い切ったことはできるだろうか。観客のあの拍手は、メッセージを受け入れた証拠に他ならない。私はアメリカ人と一緒に見ていた。だから余計にそんな空気がダイレクトに伝わってきた。こんなメッセージを伝えることができるのか。こんなにも人を感動させることができるのか。ショウの未知の可能性に触れた思いがした。

この日以来、いつか自分なりの解釈で反戦をメッセージを取り入れたショウがつくりたい、そう思うようになった。

お目当てのSpiritは、地元だから見て騒ぐと、よくも悪くもそれだけのこと。そして当時の私には、GCとBlue Devils(以下BD)の良さを完全に理解するにはあまりにも未熟過ぎたと思う。確かにいいと思ったし、かっこいいとも思ったけど、そんなにハマるといった印象は受けなかった。最も、当時のGCとBDのショウは、後になってジワジワと来るものだった(私にとっては)ので、当然と言えば当然か。

ましてや、下位の団体など殆ど記憶に残らなかったのだ。これが、次の年に大きな影響を与えることになるのだが、まあそれはまた後で。



1984・その3

夢のような夏のひとときが終わって、バンドのキャンプに入った。Rice先生2年目、今年は去年よりやる気になっている。彼は、今年の3曲目はマンハッタン・トランスファーの曲を自分でアレンジすると公言した。従って、キャンプの時点ではまだ曲はドラフトの段階。あまり練習にならないのだが先生はそればっかりやりたがる。メンバーには一抹の不安があったのだが、まあいいや、とことん付き合おうじゃないか。1曲目はスパニッシュだとさ。は〜、今更ですがって感じね(因みに前年はMooreside Marchでした、確か)で、ドラムソロ入れて、コンサートでマントラの曲やって、クローザーでバラードやって終わると。こうやって書いてみると結構楽なショウだよな、今から考えると。あ、クローザーの名前は書けません。これは私ひとりだけの宝物です。私が聴いた限り、ベストのバラード。残念だったのは、人数が足りずにフルサウンドにならなかったこと。いつか自分の手で再現してやろうと思って、事実6年後に実現するのだが。前年の最後は、これが全く記憶にない。何故だろう。オープナーのMoorside Marchしか記憶に残っていない。

もうひとつの嬉しいニュースは、この年からユニフォームが一新されたこと。現存メンバーの体格を元に採寸してくれたので、ぴったり体にフィットするユニフォームを着れることになった。これは嬉しい。新しいユニフォームって嬉しいし、前のユニフォームはダサダサだったし。でも何故かそのダサダサのユニフォームが実家に眠っているのは何故だろう?私はいい記念だと思うが、家族は邪魔だと言う。。。

ドラムソロのドリルにも更に力が入り、前年よりはできのいい仕上がりになりつつある。後はマントラのアレンジのみ。あ、やっと曲名を思い出した。「Down South Camp Meetin'」だった。確かそうだ。アルバム「Bodies and Souls」に入っているやつ。途中でマントラ張りのカルテットとか入れて、気合の入ったアレンジだった。

結局、アレンジが固まらないまま新学期に突入、アメフトのシーズンに入ってしまった。やむを得ず実戦でトライ&エラーを重ね、コンテストシーズンまでに固めることを余儀なくされた。最初の方のハーフタイムショーはさぞ悲惨だったに違いない。でも、シーズンは始まってしまった。

思わぬところから、チャレンジングな幕開け。



1984・その4

それでも、前年よりはるかにオリジナリティに溢れているショウは、当初危惧していたより好評だったようだ。普通アメフトの試合は、敵の応援団同士サイドラインを挟んで反対側にそれぞれ陣取る。マーチングバンドは、それぞれ自陣の応援席の方を正面にして演奏するのだ。そのため、敵の演奏は後ろからぼんやりと聴いていることになる。もちろん、敵の演奏に拍手をしないのは当然だ。ところが、この年は敵陣の中からパラパラとではあるが拍手をもらうようになっていた。最初はバカにしているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。或いは、バンドの実力とは関係なく「敵は敵」という悪しき習慣がこのあたりから変ってきていたのかもしれない。いずれにしても、後ろから拍手をもらうのは悪い気がしなかった。

マーチングバンドとアメフトチームはこの年とても調子がよかった。前年は勝ったり負けたりだったけど、この年は勝ちの数がかなり多かった。応援に行く以上、負けるより勝つのがいいに決まっている。勝ちが多いと、当然恒例のゲーム後のピザ屋での御乱交はとどまるところを知らなくなってくる。この頃かな、ピザ屋御乱交がもとで負傷者が出始めたのは。深夜に車のボンネットに人を乗っけて走り回り、そこから振り落とされて腕を折っちゃった奴とかが続出。私も、学校からの帰りに友達にボンネットに乗せてもらい、家に着く直前でドライバーがギャグで急ハンドル切って振り落とされ、腕を折りはしなかったものの結構すごい傷痕を残すはめになった。

「ボンネット禁止令」がRICE先生から出されるのに、そう時間はかからなかった。わはははは。

では、ということで、今度は隣町の高校のマーチングバンド部員とアメフトの親善試合をすることになった。タッチフットボールというやつで、ボールを持っている奴をなぎ倒す変わりに、両手でタッチされたらダウンという、極めて安全なアメフト。それなのに、試合が終わってみれば両チーム合わせて負傷者5人、怪我人3人。家のチームは足を骨折した奴ひとり、腕を骨折した奴ひとり。何故こんなことになるのだろう。

やっぱりほどなく「シーズン中のアメフト禁止令」が出た。この時はかなり怒っていたな、RICE先生。

アメフトチームはその後郡のプレーオフに進出した。そのため、当初予定していたコンテストにいくつか参加できなくなり、その分がコンテストシーズン後半に回されることとなった。おかげで始めて、ジョージア州を出て隣州アラバマで開催されるコンテストに出場することとなった。



1984・その5

予定通り(?)アメフトチームはプレーオフであっという間に敗退したので、そのまま休みなくコンテストシーズンに突入したマーチングバンド。この年はとても楽しかった。ほどなく、RICE先生に衝撃な事実が発覚してしまった。

近所に、小人数ながらものすごく上手いマーチングバンドがあり、そこが84年のレパートリーの中に「Down South Camp Meetin'」を、やはりオリジナルアレンジで出してきたのだ。シーズン中に一度だけ、観客席からそのショウを見る機会があったが、小人数ながら客の沸かせ方を知っている。いくらうちの「Down South Camp Meetin'」が好評でも、あれだけドッカンドッカン客を喜ばせる実力は、バンドにもショウにもうちにはなかった。軽いショックを私も受けた。

アラバマのショウは、非常に怖かった。何だかんだ言ってもアメリカ南部の州、東洋人の私がアラバマに出るのは安全とは言えない。中国系、アフリカ系の高校はまず行かないエリアでのコンテスト。まあ不快な目にも危険な目にも会わなかったけど、かなり緊張が走るショウではあった。

今回はジョージア州南部のショウが多く、長旅が続いた。そんな中で、この年初めて私の彼女がいる高校と対戦する機会もあった。因みにそこの高校とはドラムソロの曲がかぶっていた。結果は、う〜ん、あちらの方が田舎で、人数も遥かに多いしな〜、ということで。。。結局同じクラスではぶつからなかったんですけどね。アメリカの田舎だと、多いところで250人編成とか平気であるし。うちも、まあまあ大きかったけどそこまで大編成ではなかったし。この中のいくつかの高校は、その後BOAなどで目にするようになる。

余談ではあるが、この「彼女」が後に私をブルーデビルスに向かわせた張本人であり、そしてゆくゆくは私が今の奥さんに出会う機会をつくってくれたその人だ。これについてはどっかの雑誌に書いたのでもう書かないけど、彼女が果たして私の恩人なのかどうかは、う〜ん、人生終わるまで分かんない。

ザンザンの雨の中でのショウもした。予定が大幅にずれて深夜のショウもした。日本語学校のみんなが見に来てくれたりもした。活動範囲が広くなったおかげで前年より遥かに広がりのあるマーチングシーズンになった。シーズン終了前は、少し寒かったけど。そうそう、何より、前年にはもらえなかった賞をいくつかもらえるところまで、わずか1年ちょっとで成長していた。

これ以外にも、他の団体がやった曲に大きく影響されたのはこの年がいちばん大きい。「あれやりたい、これやりたい」はこの年に特に多く蓄積された。14年経った今まで、う〜ん、70パーセントくらい達成しただろうか。

地区大会で3位、4位を獲得して喜んでいたこの時が、今から考えてみてもいちばん楽しかった時期ではなかったかと思う。英語が片言ながらも口から出てくるようになって、喧嘩して相手を泣かしたりできるようになった時期でもあり、いよいよジョージアにいるのが楽しくなってきた。

マーチングシーズンが終わり、さて、前年のようにジャズバンドやって、コンサートバンドやって。。。といくはずだったのだが、もう私にはその時間がなかった。マーチングシーズンが終わった直後の12月末、一家はジョージアを離れて反対側、カリフォルニア州サンフランシスコに引っ越すことになったとさ。英語が使えない奴に優しくしてくれた友達と別れ、好きだった彼女と別れ、まだ英語力が全然なのにゼロから友達を探さなくてはならない、結構別れたくない別れ。

実は、ジャズバンドはマーチングシーズン途中から既にスタートしており、私はギリギリまで参加して営業に出かけて行っていた。新しいもの好きな私は、その後管がいっぱいついているバストロにコンバートして、バンドの超低音部をベースと共に支えてきたのだ。

引越しの準備でしばらくリハに出ることのできなかった私。その間数回のリハーサルをバンドはバストロなしでやってきた。私の最後のリハで、1曲目の前奏を一緒に吹き始めた時、いきなり演奏が止まった。何かと思ったら、メンバーも先生も私の方を見ている。そして口々に「いや〜、やっぱりバストロがあるといいわ〜」「音が全然違うわ〜」「本当に行ってしまうのか?残念だな〜」と言ってくれた。嘘だったかも知れないけど、この時はすごく泣いた。その後色んな人に「上手いね〜」と言ってもらったけど、いや、音楽に限らず色んなエリアで嬉しいことを言ってもらったこともあったけど、この時ほど嬉しい言葉はなかった。この一言のおかげで、私は今も支えてもらっているのかも知れない。

音楽ができてよかった。おかげでこんなに友達ができて、こんなにいい思いをすることができた。アメリカはフェアな国だ。言葉ができなくても、肌の色が違っても、人より秀でているものを持っている人は受け入れてくれる。

もっともっと、音楽をやって人と話をするのだ。私は決めた。

さよならジョージア。



1985・その1

年齢:16〜17歳
いた場所:アメリカ・カリフォルニア州ヒルズボロ
団体名:Burlingame High School Marching ?????????(名前忘れた)
San Mateo High School Marching Barecats(3年制高校の1年生)
ステータス:自分の居場所を捜し求める放浪者

引っ越したのを機に、ひとつだけやっておかなければならないことがあった。外国人がほとんどいなかった前の学校では、初頭英語教育があまり充実しておらず、はっきり言って質のいい教育を受けたとは言いがたい環境だった。それに加え、本人に勉強する気がまるでなかったのでアメリカに来て約2年半が経過しているというのに英語が殆ど上達していなかった。勉強ができないのは別に気にしていなかったけど、会話ができないのはとても気にしていた。そこで、外国人が多くてESL(English as Second Language)の授業に実績のある高校に通って自分の英語を鍛えようと思った。

偶然にも、その条件に合致する高校は家の学区内にあった。だから何の問題もなく、カリフォルニア州BurlingameにあるBurlingame Highに通い出した。

で、結果から言ってしまえば私はこの高校に1週間しか通わなかった。理由はふたつ。ひとつは、かなり日本人が多かったこの高校では、既に不思議な日本人社会が出来上がっていて、それが田舎から来た私にはとても合わなかったこと。いや、田舎から来たは理由にならないかも知れない。非日本人と喋るだけで変な空気が流れる、何よりも社会が「日本」そのものになっている為、ギャップを埋められない。友達ができない。昔は高校に上がってから親の海外転勤についてくる子女なんてほとんどいなかったのに、この頃から高校に入ってから来る人が増えてきた。今更そんな人たちと日夜顔を合わせて生活できるわけがない。きっかけが掴めないまま、悶々と時を送っていた。勿論、念願のESLは最低だった。ここに通っているだけで学校社会から隔離されてしまうわけだし。

そこに、もうひとつの決定的なきっかけが訪れた。一応音楽のクラスを取って、毎日また楽器を吹くようになった。勿論、誰とも仲良くなれない。でも、楽器がそこそこできるからいさせてやろうといった雰囲気だった。正直、楽しくないけど、音楽をやってるだけマシかと思い、何とかガマンしてやってきた。コンサートバンドは正直言って下手だった。でも、下手なのは仕方ないかと思い、それでも何とかやってきた。

ある日、一枚の楽譜が配られた。そこに「Lionel Richie Medley」と書いてあった。市販の譜面だが、とても酷い譜面だった。初見で合わせたが、酷い演奏だった。ところが、演奏が終わるとメンバーは一斉に自分で拍手喝采を始めた。そして口々に「Cool!」とか言い始めた。その日の夜、私は両親に、転校させてもらうよう頭を下げてお願いした。ではどんな高校がいいんだと言われた私は、「バンドがそこそこ上手くて、そして日本人が一人もいないところ」と答えた。英語をじっくり勉強しようと思った私の当初の予定は、わずか1週間で崩れてしまった。



1985・その2


条件に合致した高校はすぐに見つかった。Burlingame Highのすぐ隣に、San Mateo Highという高校があった。日本人が溢れかえっている社会の中でエアポケットのようになっている高校。みんな回りの高校に行って、その学校に日本人は一人もいなかった。前評判は、地域でも非常に優秀な高校であるが、外国人を受け入れるシステムがなく、勉強についていくのがかなり大変らしいということ。しかも、成績が振るわないとすぐ回りの外国人てんこ盛りの高校に送還されてしまうらしい。そうなるくらいなら、最初から外国人を受け入れるところにいようというのが日本人の考えらしい。

要は、来るものは拒まずだが、特別扱いは一切しないという方針の高校だった。それまでろくに勉強もしないで劣等生が板についてきた私だったが、成績がよくなければまたBurlingameに追い返されてしまう。それだけは絶対に嫌だったので、ここにきて真面目に勉強せざるを得なくなってきた。どうしてもその高校に行きたかったので、「勉強するから」と親に頼み込み、転校することになった。

事前に散々脅かされていたのでどうなることかと思ったが、私の相手をしてくれたカウンセラーは日系人のおじさんだった。とても明るく、生徒に人望のある人。東洋人がそんな位置付けをされていることは、南部から来た私にはとても新鮮な驚きだった。改めて周りを見回してみると、実に多様な人種の人達が、ごちゃごちゃになっている。前のBurlingameでも、アトランタでもそうだったが、多様な人種がいてもそれはあるていど固まっているのが当たり前の光景だと思っていたが、ここはそうでもないらしい。アトランタは確かにとても楽しかったが、正直San Mateoのそんな光景を見るとほっとした。必ずしも楽しい思い出ばかりでは、アトランタはなかったので。

San Mateoでどうやって友達をつくったかはよく覚えていないのだが、恐らく記憶が曖昧になるほど簡単だったということだろうか。本当に、あっさりと私は自分の居場所を確保することができたはずだ。あれだけ苦しんだBurlingameの1週間は一体何だったのだろうか。自分が東洋人であることについてとやかく言われない。これも非常に心を楽にしてくれた。それまでは、絶えず自分が「東洋人である」ことを強く意識させられる場面に多く遭遇していたが、ここでは自分はあくまでも「自分」。それ以上でも、以下でもない。出身地とか、肌の色とか、そんなことを忘れることができるだけでこんなにも心が軽くなるとは思わなかった。

わずか1週間で転校した私を、日本人の同級生はあまり快く思ってくれなかったようだ。私は別に彼らを否定するつもりはないし、これは育った環境というよりも、個々がどこに重点を置くかという違いに出てくると思う。事実、その後私の弟がSan Mateoに入学してきたが、半年くらいでその環境に耐えられなくなり、Burlingameに転校している。同じような環境で育ってきたのに、私と全く逆の道を選択した。彼は他の日本人グループととても楽しくやっていた。日本社会に入り込もうという踏ん切りさえつけば、それはそれで意外と楽しいのかも知れない。でも、私は同等の条件で、アメリカ社会と付き合う決心をした。それだけのことだ。

私はそれから土曜日の日本語補習校にほとんど顔を出さなくなった。毎朝車で弟を学校まで送り、それから車を発進させてサンフランシスコの色々なところを一人で遊びまわるようになった。映画を見、ケーブルカーに乗り、フィッシャーマンズワーフで買い食いをし、サウサリートの芝生で昼寝をする。友達からは「月イチの足助」と言われ、たまに出て行くと「お、今日は出てきたんだ」と言われた。日本社会ではさぞや劣等生に見られていたはず。現地校では一生懸命勉強していたけど。

アトランタの時ほどしっくりとは馴染まなかったけど、これがここでの生活かな、と漠然と思っていた。



1985・その3

San Mateo Highのマーチングバンドは、とても小さい規模だった。でも昔のマーチング名門校で、顧問のMr. Useという人は地元の名士に近い存在だった。70年代に200人体制で数々の賞をものにしたのをピークに、音楽人口が下がっていき、私が入った85年頃は30人ほどの小さなバンドになっていた。これはこの学校に限らず一帯の高校に見られた現象で、丁度アメリカの高校がパフォーミングアーツより、アカデミックなプログラムを推進していた時期にあったためだ。簡単に言えば、音楽やってる暇があったら勉強せいと、そういう環境にこの地域はなっていったのだ。

Mr. Useもこの年を最後に引退が決まっていた。本人にしてみれば非常に寂しい終わり方だったかも知れない。しかし、さすが地元の名士、持ってくる仕事は半端ではないものだった。

私がSan Mateo Highに移って初めてやった活動、それは、その年に地元キャンプ・ランドール・スタジアムで開催されるスーパーボウルのオープニングセレモニーに出るという、どえらい仕事だった。マイアミ・ドルフィンズと、地元サンフランシスコ・49rsという好ゲームに町中が熱気に包まれていた。アトランタ・ファルコンズは当時むちゃくちゃ弱かったのでNFLにはまらなかった私も、これを機に熱狂的な49rsファンになり、モンタナ教信者となってしまう。

オープニングセレモニーは、地元の高校生を1000人くらい集めてアメリカ国旗のドリルをするという、あまり人には見せたくない絵であったのがちょっと残念だったが。。。

この地域でのメインはコンサートバンドとパレードだった。特にパレードは、コンテストが盛んに開かれるくらい広く普及しており、毎年4〜5月がシーズンとなっていた。フットボールフィールドでショウをやっていた私にとっては相当不満なコンテストだったが、郷に入れは郷に従えで仕方がない。

コンサートのコンテストは2〜3月に行われ、課題曲演奏、自由曲演奏、そして初見演奏とかなりハードな競技内容だった。結果は順位ではなく、グレードで表されるのだが、結構下手だった割にはいい成績を収めていた。ここでは、「ライオネル・リッチー・メドレー」などやらされる心配はなかったのでまだマシではあった。でもやっぱり、リードとかスミスとか、コンサート的にはベタな曲が多かった記憶が。。。

ジャズバンドは、私が編入した時で既にシーズンの真っ盛りだった。入ってすぐ曲を覚えて、何とかついて行けるようになった。ジャズバンドだけは非公式団体だったので、練習は週2回、夜に行われた。ジャズバンドの記憶。。。下手だった(笑)。ゼロから積み上げたPeachtreeより、遥かに下手だった。でもやってた。それくらいでしょうか。

このように、かなり不本意な音楽生活を送らざるを得なくなってきた私だったが、その分勉強がハードになってきて丁度よかったかも知れない。前までは外国人特権で英和辞書の使用が許されていたのだがそれを全て返上し、1学期で英語のクラスをふたつ履修し、その他の学科でもある程度の成績を出すことを要求されるという、今までにない試練となった。この頃の英語の授業は英語古典文学や近代文学を読んで、その本の中から試験をするというパターンになる。だから1クラスで常に1冊の本を読む。2クラス取るということは、常に2冊の本を読む。私は本が読めない。学校から帰ってとりあえず寝て、8時頃起きてご飯を食べて、そこから夜中2時か3時くらいまで宿題と勉強をするというのがこの頃の生活パターンになった。

こんな生活環境だったから、私はこの後書く罠にはめられてしまったんだなあ。。。



1985・その4


この年のバンドのドラメは、ウェスリー・ムカイという日系3世だった。日系人で、当然英語も上手くて、頭もむちゃくちゃよくて、リーダーシップも人望もあり、奇麗な彼女を連れていた。楽器はTpだったが、そっちの方は。。。う〜ん、まあまあだったかな。。。まあ、それを差し引いても、同じ東洋人である私には彼がとても眩しく見えた。彼は私の憧れであり、目標だった。そんな私と、彼はずいぶん仲良く遊んでくれた。

そう言えば、世界史の先生にツキダさんという、やはり日系2世の人がいた。この人にも親切にしてもらっていた。前述・マエダ先生も言うまでもないが。考えてみると私は在米日系人の人に本当によくしてもらっていた。日本人駐在員のボンボン息子なんて、本当は鼻持ちならなかっただろうに、何であんなに優しくしてくれたのだろう?余談だが。

で、そのウェスリーが3月のある日、私に「今度の土曜日、フレズノに行こう」と言い出した。「何しに行くんだ?」と聞くと、「Freelancers(以下FL)のリハを見に行くんだ」と言った。「FLって何だ?」と聞くと、「フニャフニャフニャ」と答えた。このフニャフニャは、きっと「ドラムコーだ」とでも言ったのだろう。当時の私の英語力では分からなかったし、よしんば「Drum Corps」と聞き取れたとしてもそれが何かという概念は皆無だったから、結局分からなかったはずだ。又、ウェスリーはひょっとしたら「オーディションを受けに行く」とも言ったかも知れない。でもやっぱり私には聞き取れなかったし、仮に聞き取れても何故オーディションが要るのかさっぱり分からなかっただろうから結局分からなかった訳だ。多分英語ができようとできまいと私には分からなかったはずだ。とにかく、何のために何をしに行くのか、私にはさっぱり分からなかった。唯一はっきりと分かったのは、私とウェスリーは今度の土曜日にフレズノに行くということだけだった。

カリフォルニア州フレズノまでは、車で2時間から3時間かかる。朝の6時にサン・マテオを出発した私達は、一路南東へ向かった。

朝8時半にキャンプ地に到着。この時、メンバーはまだ体育館で寝ていた。既に起きていたスタッフから、練習が始まるまで待っていろと言われたので、ふたりで大人しく待っていた。ついでに朝ご飯をごちそうになり、いつのまにかバリトンとコントラのメンバーとお友達になっていた。

10時からリハ開始。外でストレッチとベーシックの練習。何故かその中に私が入っている。いや、ちょっと、確か私は「練習を見学に」来たはずなんですけど。。。当然、高校でやっているお遊びみたいなベーシックとは比べ物にならないほど時間をかけ、また出る指示が細かい。いきなりあれせいこれせい、姿勢がどうこうと、集中攻撃を受けるハメになる。「お前、名前何て言うんだ?」「イチローです」「イチロー!!!」と見ず知らずの人たちの中、私の名前がこだまする。だ、だから、私は見学者。。。

午前のリハが終わった時点で、私の体力は完全に切れていた。昼ご飯も喉を通らない。もう一刻も早く家に帰りたい。そうウェスリーに言いたいのだが、「もうギブアップか?根性ないやつ」と言われると嫌だし、う〜ん、自分で車を運転して来ればよかったな。帰りたい帰りたい帰りたい。今日は土曜日なのに。

午後に音出し。ほいと渡されたバリトンにはバルブが2本しかな〜い!!!!!!ど、どうすればいいんだこれは。しかもいきなり「音を聴きたいから、お前ひとりで吹いてみてくれ」っておぉ〜〜〜〜い!!!!とりあえず指使い分からんて!!!!何も吹かれへんて!!!

でも、とりあえず当時は高音域結構得意だったので、高音の辺をぷーぷー吹いてたら、メンバーがおおっと声を上げてくれた。そして、「よし、君はバリトンだ。ここに入れ」って場所開けてくれて。だ、か、ら、指使い教えてくれ〜〜〜。。。の一言が言えないまま、全体ウォームアップに突入。。。

知ってる人は知ってる、85年のFL。あの、あのレベルのアンサンブルである。確かに音はでかかったけど、無茶苦茶汚い、あれだあれ。でも、私はその音の中に入って初めて、体に戦慄が走る体験をした。体育館の中で音響に助けられたというのもあるが、私は「こ、これってすげぇ」と、不覚にも思ってしまったのである。午前中と違い、夢のような午後の音出しのひとときだった。

でも、ひとときはひととき。すぐに私はフィールドに連れ出され、ドリルの中にポジションをもらっていた。「私は見学者」と考えるのももう面倒だったので、歯を食いしばって動いた。ウェスリーはアルトだ。もう近くにはいない。こうなったら一人で堪え忍ぶしかない。でも、夕食の後にも練習するって言われた時は、衝撃を受けたな〜。こいつら、一体何のためにここまで練習するのだと思ってた。

こうして何とか土日の2日間を乗り切り、憔悴し切って家路に向かう私の手には、2バルブのバリトンがしっかりと握られていた。あの時、もう少し英会話ができてたら、私は「いらない」と答えていたかも知れない。全ては自分に英語力がないことから始まった。バリトンをもらったということは、今から考えてみるといつのまにかオーディションに合格していたらしい。

当然、自分の身に何が起こっているのか、この後どんなことが起こるのか、このやたらと上手い(と思っていた)団体は一体何なのか、すべてはさっぱり分からないままだった。




1985・その5


いつ「辞めさせてください」と言おうか迷いながらも、それからウェスリーと私は月2回の日曜練習と月1回のキャンプにせっせと通うようになってしまった。ウェスリーは完全にやる気になっている。確かに、音は今までで参加したどの団体よりも大きく上手く出ているし、その中で吹いているのは結構気持ちよかったのだが、結局、私は「辞める」と言うことによって彼に失望されるのが嫌でそのままずるずる続けていたような気がする。

それと、Gの2本管は家で適当にいじっていると指使いも何とか分かってくるし、きついドリルでも通るようになってくると楽しくなってくるし、最初の方だけガマンしていれば体力も徐々に追いついてくるし、何よりも友達が増えればそれだけで楽しいし。。。

San Mateo Highでコースタイルのショウができなかったというのも、ずるずるはまった原因のひとつなんだなと、今考えるとそんな気がする。アトランタにいた時の環境だったら、きっと辞めていただろう。

5月あたりになると、曲もだいぶ出揃ってきてドリルのペースも上がった。ここで、私は3月4月には考えていなかった疑問が噴き出してきた。この練習はいつまで続くのか?そもそもこのショウをいつ、どこでやるのか?夏休み?それともマーチングのシーズンに入る9月以降?そうだとしたら結構ペースが早い。このまま夏休みも練習を継続するのだろうか。そう考えるとちょっと憂鬱になる。

そして5月最終週、この週はメモリアル・デーというアメリカの祝日。この祝日は日で決められたものではなく、自動的に5月の最終日曜日の翌日月曜日になるので、毎年必ず3連休になる。そこで金曜日の夜から合宿。何と土、日、と2日間もフル・デイのリハ。これも結構きつく悲しい。このキャンプ中に初めて、我らが10日後にバスに乗ってツアーに出かけることを知って驚いた。ツアースケジュールを渡されて、更に驚いた。どうせカリフォルニア近辺の田舎をダラダラ回っているんだろうと思っていたが、確かに最初はそうだが、後になるとアリゾナ、テキサスとか、イリノイ、インディアナとか、ニューヨーク、ニュージャージーとか、果てはハミルトン、モントリオールという地名まで入っている。これではアメリカをほぼ網羅してしまうではないか。最終日は8月17日。途中一旦サクラメントに戻れるものの、1週間の後また50日近いロードが待っていることも分かった。

さらにびっくりしたニュースは、家からサクラメントまで約2〜3時間かかる為、学校が終わり次第、Sacrament Universityの学生寮に入るように言われた。今キャンプ終了が5月の27日、学期終了が5月の31日、ということは6月1日にはもうサクラメントに移動していなくてはならない。

全米、カナダに移動する大ツアー、急な引越しで辞めるどころではならなくなってしまった私。試験勉強とキャンプを必死で両立させていた疲れを癒す間もなく、6月1日から学生寮に入寮。相部屋が普通だったのだが、人数の関係で私が新しい部屋の最初の入居者。その後入寮者がいなかったので、私は4人部屋をひとりで使うことになった。羨ましいと思うなかれ、当時の私には気分が滅入るいちばんの理由になった。

6月1日から7日まで、ダルい10 to 10(朝10時から夜10時までのリハ)が始まった。いつの時代でも、どの団体でも体をこの生活ペースに慣らす時期がもっともつらいのではないだろうか。ツアーがおっくうだった私も、直にはやくツアーが始まれと切に思っていた。多分シーズンを通じてもっとも長く時間を感じた期間。

そして、あまり覚悟ができてなかったツアーが始まる。



1985・その6

6月7日のツアー出発日、サクラメントまで家族総出で見送りに来てくれた。この1週間は家族間調整が大変だった。何せ私も何故、どんな目的でこれだけの長期間ロードに出なくてはならないのかさっぱり分からなかったので、家族に説明できなかったのだ。17歳の息子の行く末を心配して当然と言えば当然か。スタッフの人も一生懸命家族に活動内容を説明してくれたので、とりあえず怪しいツアーではないことは分かったが、できれば高校の夏期講習に出て欲しかった両親はそれでも不満だったに違いない。夜に本拠地サクラメントを出たバスは、第一の目的地カリフォルニア州リバーサイドに向かった。

現在はもう廃止されてしまっているが、当時はかなり早い時機にDCI Texasという大会がテキサスで開催されていた。従って第1回ツアーの最終目的地はテキサス。いきなり地獄のロードである。加州南部からアリゾナに抜け、フェニックスのショウの後一気にテキサスを突っ切る工程。初心者の私には十分過ぎるほどの洗礼。

最初は、カリフォルニア州近辺でショウをしていた。California Dons(以下Dons)とVelvet Knights(以下VK)と一緒にプレシーズンショウをこなしていた。Stocktonかどこかで、初めて客の前で演奏することになった。会場には数百人のお客さんがいて、私はびっくりした。こんなに集まるとは。私はもっとドサ回りのような、しょーもない営業とかパレードとか地方でやらされるものとばかり思い込んでいたので、まさかショウそのものを真剣に見に来てくれる人達がいるとは思いもよらなかった。曲もドリルもガッタガタで反応がどうだったとか全く記憶にないが、あんな出来の割には上々だったんだろうな。少なくともブーイングかまされた記憶がないから。

Velvet Knightsは、客受けが桁違いにいいので正直敵わないなと思っていたものの、レベル的にはうちとどっこいどっこいだったのでいい勝負になった。当時のDonsは両団体とは勝負になるレベルではなかたので、ずっと1位2位続きでツアーを消化。悪い気はしない。ちょっと調子に乗りながら、6月22日にCarritosという小さな町に入った。そこで私が受けた衝撃、文章にできる自信がない。それまでFLはずっとトリを務めていたのだが、その日のショウは私達よりも後に演奏する団体があるらしいことが分かった。初めて他の団体のショウが見れるとばかり、バックスタンドに陣取った私の目に飛び込んできたのは、見覚えのある赤いユニフォームの団体だった。やがてアナウンスが「from Santa Clara, California. The Santa Clara Vanguard!!!」と謡い上げ、観客からやんやの喝采を受ける。前年アトランタで、あの「テンダーランド」で衝撃的な終わり方をした、あのSCVが目の前にいる。1曲目。パンツの色変化に衝撃を受け、「Tender Land」のスケールに圧倒され、何よりもあのクローンみたいな一糸乱れぬ個々メンバーの動きに開いた口が塞がらず。。。

SCVが終わった後に、やはり見覚えのある青いユニフォームの団体。ここでは最初の吹き伸ばしシークエンスに完全に粉砕された。今までに聴いたことがない、別次元のブラスの音。BDがその日のトリを務めた。

ずっと練習をして、ツアーに出て、ここまで来てやっと、私がDCIに参戦していること、あの、去年アトランタで見たBDやSCVと同じ土俵で戦っていることを理解した私は、事の重大さに恐れおののいた。VKと競って、Donsを負かしたくらいでいい気になっていた私の自尊心ははるかかなたに情けない音をたててすっ飛んでいった。

このファーストツアーで、私は一種運命的な出会いをしている。アリゾナ州のどこかの名もない町に一時停車した私は、暑さよけのために安いカウボーイハットを買って被って歩いていた。回りからは「ジャッキー・チェンみたいだ」といたく評判(?)だった(何故ジャッキーみたいだったのかはよく分からない)。その中で一人のMMインストラクターが私の素性にいたく興味を持ってくれて、色々な話をしていたら突然「よし、カウボーイハットを被っているから今日からお前の名前はTEXにしよう」と周囲に叫び、以後ドラムコーの中では私の名前はTEXになった。彼と私は、後にBDで再会する。彼こそ70年代のバンガードの革新的ドリルを作ってきた先駆者、今ではBDに欠かすことのできない人物となったPeter Emmonsその人だ。



1985・その7

Immanuel
The Minotaur
The Island
The Forest by Ciurlionis, Mikalosuis Konstantinas
Bells by Rachmaninov, Sergei

DCI Repertoire Database (http://www.corpsreps.com/)によると、この年のラインナップはこうなる。「The Minotaur」と「The Island」には作曲者名がないが、これはフランスのコンポーザー、Michel Colombierのアルバムが原典となる。「Immanuel」はひょっとしたらフランク・ドルティーのオリジナル曲かも知れない。「Bells」がラフマニノフとは13年経った今まで知らなかった。

スタッフは、フランスっぽさを演出したかったらしいが、それは失敗に終わったと思う。それよりはちょっとだけ前衛的な雰囲気を出すことに成功しているような気がする。ドルティーさんのアレンジは私は気に入らなかったが、ちょっと手を加えれば現在でも充分使用に耐えうる楽曲ではないかと思っている。丁度DCIの選曲、スタイルなどの過渡期に入っていた時期でもあり、このあたりから同様の要素を取り入れた団体は少なくない。そういう意味では、この年のFLは時代の波に乗っていたと言えなくもない。

いかんせん、中盤の楽曲にパワーがなかったこと、ビジュアルデザインにさしたる効果がなく、またそれさえもメンバーが十分にこなせなかったこと、そしてドラムラインが壊滅的に下手だったことがショウの楽曲を生かしきれなかった要因ではないかと思う。半分贔屓目で見てしまえば、ブラスと、CGの一部にはそれなりのポテンシャルを持っていたように思う。それは一時解散が決まった86年以降、多くのブラスとCGがトップコーに散っていった事実を見るとおのずと明らかになってくる。少なくとも86年のBDと89年のSCVには、この時のメンバーが大きく優勝に貢献している。しかし、ドリルデザインの稚拙さ、またそれを上手くできない私達ブラス。13年経った今でも正視に耐えないできであったことは確かだ。

ブラスの見せ場は、「The Minotaur」の、通称キャノンショットと呼ばれた頭と、最後「Bells」の大音量。この部分についてはシーズン中ほとんど手が入らなかったが、「The Island」と「The Forest」は難産の末の産物となった。「The Island」では後半のドラムソロに楽曲、ドリル共にかなりのチェンジを入れた。「The Forest」に至っては、シーズン当初とファイナルとではもう違う曲だ。残念なことに、これだけ取り組んでもさしたる効果は得られなかったというのが私の感想だ(一部にThe Forestはよかったと言ってくれる人もいた)。「Immanuel」も、ほとんど練習した記憶がない。ドラムコーの人達だから、特に練習しなくても歌は歌えるし、問題なかったのではなかったか。

そうそう、ついでに書いてしまうと、あのユニフォームはいただけなかった。あれはガードだけでよかったのではないかと今も思う。事実、ちょっとでも観客を沸かせた効果はガードのみだった。前年までのユニフォームはカッコよかったのにと思う。できればあれが着たかった。

ツアーはその後、ロス近郊のRiversideに入り、そこから地獄のアリゾナ〜テキサスのロードに入る。Riversideは比較的過ごし易いところで、楽にリハができたのだが、アリゾナから先はそうもいかない。徐々に暑さが体に響き、これまで何ともなかったリハがとても苦痛になってきた。ただ、先へ進めば進むほど観客の数が増えてきて、これがとても励みになった。自分のショウがどんな出来であろうとも、とりあえず大勢の人に見てもらえる機会が与えられているのは単純に嬉しかったし、何よりも高校のハーフタイムショウと違い、観客は善し悪しを分かって見てくれていることにやりがいを感じていた。時には現地の高校生らに厳しいことを言われたりしてたけど、何にも分からない人に「よかった」と言われるよりはずっといい。

そして、ファーストツアーの最終目的地、DCI Texasに入る。



1985・その8

アリゾナ州フェニックス、テキサス州エルパソ、ダラス、そして、6月29日にDCI Texasの会場、オースティンに到着。競技団体数12は、それまで経験した中で最も多い。観客も恐らく数千人、ひょっとしたら1万人くらいは入っていたのかも。いずれにせよ、私にとっては凄い人数だったなあ。その多さに圧倒されたのだけはよく覚えている。でも、集団競技のいいところは、こういう状況でもあまり緊張しないこと。最も、これは個人差があることだとは思うが。。。後々、学校の指導をしていた時に何故本番前に生徒がそこまで緊張するのか理解できなかったし、多分今でも理解できないし。「こんなに人(観客)が大勢いたら見られる」って心理と「こんなに人(メンバー)がいれば見られない」って心理と、私は後者だったということですな。

初めてのメジャー大会の結果は、12団体中7位。暑さと出来の未熟さとが絡み合い、ショウとしてはとても不本意な内容だったことははっきりと覚えている。ショウを終えてユニフォームを脱いで、他の団体のショウを見ている時でも汗だくだったのもよく覚えている。この日、ユニフォームを脱ぐ時間があったので、初めて正面からSCVとBDのショウを見ることができた(当時のルールで、ユニフォームを着た競技者が正面スタンドに姿を現すと減点の対象になった。今はどうか分からないが)。SCVは非常に分かりやすいショウ構成で、比較的すんなりと入れたのだが、BDのショウは、凄いことは凄いのだがさっぱり分からず、友人に録音してもらったテープをこのツアー中ずっと聴き込んでいた。テキサスまで来て、やっとその良さと凄さが分かりかけてきた時に見た正面からのショウだっただけに、改めてかなりの驚きと新鮮さをもって受け入れることができた。この瞬間から、私は85年BDの虜になってしまった。

とにかく、ファーストツアーは暑かった。寝袋を忘れた私にとっては、生活面から見ると暑かったことは実に幸運だった。しかし、当時57キロしかなかった体重はこの時点で50キロ台前半まで落ち込み、体力の消耗が蓄積に全く追いついていかなかった。筋トレをしようにも、それをする体力すら残らず、ただただ体が運動量に慣れるのを待つしかなかった。

もし85年のFLを見る機会のある人は「こんなショウで体力が追いつかない?」と思われることだろう。その通り、ショウそのものはそんなにきついものではなかった。ランスルーは平気で3回、4回とやり続けられるくらいの総運動量でしかなかったはずだ。体力切れの原因はショウではなく、リハの内容にあった。朝早くから夜遅くまでという、変則的かつ無謀なスケジュールに加えて、とにかく走って、走って、走りまくるだけのリハ。筋トレの一環と割り切ればいいのだろうが、自分自身、また周りを見てもそれがてきめんの効果を上げているとはどうしても思えないリハ。暑いテキサスを離れるのはありがたかったが、一旦帰郷すれば、フル・デイのリハが丸8日間も続くことになるのだ。そう考えただけで不安になる。

酷暑のテキサスからオクラホマに立ち寄り、その後丸一日をかけて、ツアーバスはカリフォルニア州サクラメントに到着し、そこで私達に2日間のオフが与えられた。片道2時間もかけて家には帰りたくないと思うほど、私は疲れていた。メンバーの誘いも一切断り、私はこの2日間ひたすら寝た。大学寮のプールに入りながら寝たりしていた。

この後の8日間が、私の現役生活の中で最も過酷な経験になった。昼間ボロボロで、夜は一人部屋の生活は、ルーキーの私にとってかなり厳しい試練になったからだ。夜は可能な限り一人にならないように努め、あっちの部屋こっちの部屋へ乱入する毎日が続いた。10 to 10の真っ最中では、さすがのアメリカ人も夜遅くまで騒がないので、結局夜中の1時過ぎに自分の部屋に帰ることになる。この瞬間が実に嫌だった。結果、かなりキレるようになってしまった私は、メンバーやスタッフに迷惑をかけた。8日間の後半部分で、かなり精神的について行けるようになったけど、この期間でもついに体力的について行ける自信はつかなかった。



1985・その9

2ndツアーは、7月12日、SCVの地元サンノゼで開幕し、翌13日には地元サクラメントでのホームショウが行われた。年間約30〜40ヶ所で演奏する各団体でも、ホームショウは原則的にたった1回しかない。数あるショウの中で、ファイナルウィークに次いで特別なショウになる。何せ観客は友人、両親、兄弟、そして団体のAlmni等、私達の「味方」ばかりだからだ。

2ndツアーには、私はカナダに入国するためにパスポートが要る。前のオフで家に帰らなかった私のパスポートは、まだ家にあった。それを届けるついでではあったけど、私の家族も初めて自分の息子のショウをサクラメントまで見に来た。かなりこっぱずかしかった。そうそう、ホームショウの最大の特典は、どんなに下手な団体だろうとホームであればトリ。これが嬉しいか嬉しくないかはその団体の実力にかかっているだろう。この年のこの団体では、正直あまり嬉しくなかった。

この頃から、うちとVKとの2団体は勝ったり負けたりを繰り返しながらライバル関係になってきていた。最初はVKの方が遥かに強かったのだが、そのうちうちが追いついてきたような感じ。でも、客にドッカンドッカン受ける彼らのショウは、見ていてとても羨ましかった。ホームショウのこの日は、うちが2.4ポイントという大差で勝ったが、前日のサンノゼでは1.2ポイント差で負けている。シーズン後半に入り、この2団体の勝負は熾烈になっていた。

Stockton、Concordのショウを消化した後、Concordから夜中のロッキー山脈越えに向かわんとするSCV、BD、VK、そしてうち。このラインナップは、ドラムコーの「聖地」のひとつであるミネソタ州Stillwaterまで。その後はバラバラのツアー工程となる。うちはBDと一緒に東まで突っ切り、その後カナダでSCVと合流。そして再度南下、中西部をうろうろしてから最終目的地のマジソンに入るという予定。オフ中にしっかりと寝袋を買い込んだ私は、もう一人前のドラムコー人だ。

南部の荒涼とした景色と違い、北部の木々に囲まれた風景も十分にインパクトの強いものだった。このツアーを通じて、私はアメリカ中西部がとても好きになった。

この最後の合流地点で、BDと自分を結び付ける重要な出来事に出会った。Stillwaterは、ドラムコーをする人々の隠れたメッカとされている場所。特別スタジアムが大きいというわけでもないし、とても大きい町というわけでもないのだが、ここでショウをする団体は、ほとんど例外なく半日のオフを取る。湖に面しているこの町は小さいがとても雰囲気がよく、のんびりとオフを過ごすには最適の場所だ。7月27日、朝にStillwaterに到着した各団体は、仮眠を取った後午後から夜にかけてオフ。次の日の朝と午後リハをして、夜ショウというスケジュールを取る。「ほとんど例外なく」と書いたが、唯一の例外はBD。BDは、ここStillwaterに立ち寄る年は必ずダウンタウンで立ち演をするのが恒例となっている。多くの地元の人と、オフを取っている他団体の人間がその立ち演を聴きに集まる。私もその一人だった。

BDが10メートルの距離で本気の演奏をしたその音に、私の心は大きくゆさぶられた。この時ほどこいつらがかっこよく、とてつもなく上手く思えた時はなかった。何と言ったらいいのだろうか。男ならこうなりたい!と私は強く思った。でも決して本気で思ったことではなく、まだ憧れでしかなかったのだが。それから4年後、同じ状況で自分が演奏する側に回ることになろうとは、この時にはもちろん知る由もない。



1985・その10

中西部を抜けた私達に、ショッキングな出来事がふたつあった。

まず、8月3日ペンシルベニア州Allentownにて行われたDCI East。初めてオープンコー全26団体が一同に会する競技。予選で、FLは27th Lancersと並ぶ11位タイで終わってしまった、しかも、それまでつかず離れずだったVKが、しばらく一緒にやらなかった間にふたつ前の位置、9位に上がった。本選でFLはVKのすぐ後ろ、9位VKのすぐ下、単独10位に上がったのだが、それでもVKとは何と3.2ポイントの差がついてしまったこと。

そして更なるショックはその次のショウ、マサチューセッツ州Pittsfieldはその差が5.7ポイントまで開いてしまったこと。5.7ポイント差、それは普通ならレベルの差がはっきりと現れる差である。kの取り返しのつかない大差に、私達はがっくりと落ち込んだ。

そして、初めて行ったカナダ。最初の地、Montrealでツアー初の終日オフ。外に出て分かった。ケベック州って英語が通じないんだ。。。お酒飲み放題なんだ。。。ストリップ見放題なんだ。。。当時17歳の少年にとっては、それはそれは衝撃的な体験のオンパレードになったとかならないとか。。。

8月8日のモントリオールでは、0.7ポイント差でVKを返り討ちにすることができ、私達の士気は復活した。2度の大敗で完全に自信をなくしていたが、まだ勝負は終わっていないことが嬉しかった。10日のHamiltonでまた逆転されてしまうのだが・・・Hamiltonで行われたDCI CanadaにはBD、Scouts、PR等が顔を揃えていたが、同日同時刻、オハイオ州MarionではSCVとCadetsの2強対決が注目のU.S.Openが開催されていた。オハイオの結果はHamiltonの電光掲示板に映し出され、94.8でDCI Canadaを制したBDに対し、SCVとCadetsは97.1という高得点で1位タイに並んだ。Hamiltonの観客も、この時ばかりはどよめいた。この頃までDCIに猛威を振るっていたカリフォルニア4団体。FLとVKの対決は何とか復活した。今度は、BD、SCV、Cadetsの3強争いに果たしてBDがついて行けるのか?

ツアー後半に入ってくると、そろそろ各団体が大体どの辺の順位にいるのか分かってくるものだが、この年の9位〜12位までは大混戦となっていて、ライバルのFLとVKでさえ、まだ決着が着いていない有り様。そこに、近年低調だったがこの年から異様に力をつけてきた超老舗団体Troopers、同じく80年代初頭まではファイナルの常連だったが近年調子が出ず、Top 12復帰で復活の糸口を掴みたい名門、27th Lancersを加えた4団体が、ファイナルでどんな順位に並ぶかが焦点になってきていた。そんな混戦を更に激しいものにした戦いが、8月12日、ファイナルウイークに入る前の最後のショウはインディアナ州Bloomingtonで行われた。ここは、Star of Indianaという、この年新設されたばかりの団体のホームタウンだった。新設とはいえ、超一流のスタッフを揃え、物凄い金額をショウに注ぎ込んだ超成り金団体ともっぱらの噂だった。しかもディズニー。それまで5回対戦し、一回も負けたことはなかったのだが、この日初めて負けた。全くノーマークだった団体がこの混沌とした争いに加わってきた。これにより、4つ巴でファイナルの順位を争うものだと思っていたレースが、Starを加えた5団体から1団体、Top 12から脱落することがはっきりとしたのである。

後で知ったことだが、この時点でうちのスタッフと他のメンバーはファイナルに残ることを諦め、脱落するのは自分達だと思っていたらしい。でも、ここから鬼のようなリハが再開され、昼も夜も練習の時間が続いた。私は、単純にStarに負けたのがかなり悔しかったので、ツアー終盤に向けていいモチベーションができた。

こぼれ話を忘れてた。2ndツアーで印象に残った下位団体!!!

Bridgemen。。。よくツアーで一緒になっていた。何の予備知識もなしでこの年のショウを見たら、何てふざけた奴等だと腹を立てる人間が多いだろう。私もその一人だった。彼らはこの年ダントツのビリだったので、私達がショウを見る機会は全くなく、Retreatの彼らの態度を見て判断しただけなのだが、それでも充分彼らはふざけていた。しかしツアーをしているうちに彼らのバックグラウンドを聞いたり、70年後半から80年初頭のショウをビデオで見る機会もあったり、そんな経緯があって、ついにツアー最終工程、ニュージャージー州Bayonneでの彼らのホームサイトで初めて85年のショウを見ることができた。約2ヶ月の追体験だったが、私なりにBridgemenの楽しさが十分に楽しめたと思う。彼らの最後の年に一緒にツアーできたこと、うれしかった。

Boston Crusaders。。。彼らのショウは、ついに一回も見る機会がなかった。が、Retreatの彼らのかっこ良さは突出していた。スネアのリムショットだけで退場し、観客の前に差しかかるといきなりブラスを観客席に向け「Conquest」を浴びせかける彼ら。観客は総立ちで喜んでいた。フィールドにいた私はその風景を見て鳥肌が立った。これはどこに行っても受けてたなあ。ああいう秘密兵器は羨ましかった。何であの曲を使うの止めたのだろうか。



1985・その11


5千人、1万人、2万人、2万5千人。。。ツアーを消化するに連れ、メジャー大会での集客力がグングン上がっていくのがよく分かった。最終的に、ファイナルでどれだけ集客するのかは、84年に実際にスタジアムでその模様を見て分かってはいるのだが、スタンドにいるのとフィールドからスタンドを見上げるのとでは受ける印象がまるっきり違うことに気が付いた。スタンドからだと「うわー、結構多いな」程度に思っていた規模でも、実際フィールドから見るとあまりの多さに圧倒されてしまう。それで緊張するということは全くないのだが、「こんなに大規模なものなんだ〜」と、ショウの開始前に不覚にも見とれてしまう自分がいた。こんなにたくさんのお客さんに見てもらえる、これはセカンドツアーに必死でついていく私にとってはこの上もない励みになった。

ツアー終盤で再び合流したBDは、エンディング変えていたのでちょっとびっくりした。それまでは、80年代前半の、いわゆる「あの」エンディングを踏襲していたのだが、より最後の「First Circle」を生かす形に作り替えていた。この年のBDは確かにエンディングに四苦八苦していて、それまでに数度のマイナーチェンジはあったものの、ここまで変ったのは初めてだ。時期から考えると、これが最後の変更になるだろうと思った。

中西部の木々のトンネルをくぐり、その果てしない風景に圧倒されながら、最終目的地のウィスコンシン州マジソンに到着したのは、Starショックの翌日、8月13日だった。やっと終わりが見えてきてホッとする反面、しばらくショウがなく、終日リハの日々が続くので、最後の難関といったところだ(ショウのない日がどれだけ嫌か、経験者ならよく分かる)。当時はパレードは参加を強要されなかったので、ファイナリストにボーダーすれすれで残っていたうちの団体は、当然不参加。インディビも、この年参加する余裕のあった人間はいなかったのでは?それほど、よく練習した。都合3年、ツアーをやったが、ここまで練習に明け暮れたのはこの年だけだったし。

前にも書いたが、スタッフはほとんどTOP12に入ることを諦めていた。でも、リハはとても諦めた団体がやるような量と質ではなかった。どんな結果になろうとも、その時までベストを尽くすつもりだったのだろう。当時、Quarter Finalは前年のTOP12団体は参加できないルールになっていたので、大混戦のサバイバルレースの決着は、Semi Finalのみの一発勝負。ひたすら己のショウを磨くのみ。

でもまさか、Semi Finalを本当に通過できるとは思わなかった。Semi Final結果発表後のFLの騒ぎようは凄かった。実態が見えない相手と戦い、何とか勝つことができた私達のシーズンは、この時点でシーズン終了を待たずに終わってしまったような気がした。ファイナルは、言ってみればもうおまけのようなものだった。

おまけのようなものだったファイナルの日はしかし、私にとって特別な日になった。ファイナルの日、最後のリハをしている私達の宿泊施設に一台のバスが乗り付け、そこから髪の毛が黒い東洋人ご一行様が続々と降りてきて、メンバーは一時騒然となった。この後、毎年私は言われ続けるのだが、「Texの一族が、バスで見学に来た!!」と騒がれる。でも私は、こんな競技が日本で知られているとは全く思っていなかったし、しかもわざわざ日本から見学に来るなんて考えられなかったので、「ウェスリーの一族ってすげ〜な〜」と本気で思っていた。どちらにしても日本人には変わりないだろうからと、数ヶ月の間全く日本語を話していなかった私はリハの後に奇麗なお姉さん達にご挨拶に行った。それが名古屋の向井さんと大久保婦人のふたりだった。彼女達は、日本語を喋るメンバーがいるということにとてもびっくりしたようだったが、彼女達が日本から来たこと、DEGジャパンという会社が主催するツアーでやって来たということを話してくれた。

ここで、大久保夫妻、加藤さん、長瀬さん、横田社長、堀さん、森田さん、向井さん、田中さんといった面々にはじめてお会いした。そして、日本でもマーチング活動が活発に行われていること、DCIの動向は皆関心を持っていることなどを知った。それまで私は、自分が行っている活動は日本の社会とは完全に無縁だと思っていた。はっきりと日本社会から隔離されていたと思っていた私は、それまでにある種の孤独感を抱いていたのは事実だった。例え自分の家族にも、私が一体何をしていたのか、理解してもらえないだろうと思っていた。母国日本にも話の通じる人がいること、自分がやってきたことを理解してくれる人達が存在するということは、わけのわからないままDCIに巻き込まれた私にとっては嬉しかった。本当に嬉しかった。

余談ではあるが、色んな人と話をしている間、ずっと遠くからガンを飛ばしている二人組の男がいた。彼らが大槻、中原というコンビだと分かるのは、その2年後だ。

日本の人達にとっては、さぞや拍子抜けするランスルーだっただろう。本当に12位通過?と思われたことだろう。でも、そんなことはどうでもよかった。私はその人達の存在そのものが嬉しかった。そんな気持ちにさえなっていなければ、とても恥ずかしくてお見せできるようなショウじゃないと思ったことだろうが、でも彼らには少しでもそこに長くいて欲しかった。自分がそれまでたった一人で何をしてきたか、少しでも長く聞いて欲しかった。

1985年8月17日、ファイナルのフィールドに立つ。観客5万5千人。その時点でのDCI集客数新記録だった。私達のショウは決して観客のFavoriteではないから、それだけいてもそんなに客は騒いでくれない。サワサワサワ。。。と観客席がざわめいているショウ開始直前、私ははっきりと聞いた。日本語で「頑張れ一郎」という一言。



1985・その12

翌日曜日の朝の飛行機でサンフランシスコに帰還した私は、そのまま正体不明の病気にかかり、約10日間寝込み、最後は過呼吸を併発して病院に駆け込む騒ぎになった。何もわからないまま参戦したDCI。この時に思ったことは、「もう二度とやるかこんなもん!!!」だった。実際、翌年のFLには不参加の表明をはやばやと出した。やる気がなかったことを差し引いても、Sacramentoはあまりにも遠く、家からの移動だけでもかなりの負担となったので、もうここではできないと痛感しての決断だった。どのみち86年はFLは活動を一時停止してしまうので、表明してもしなくても変らなかったのだが。

せっかくの残りの夏休みを病気療養で潰してしまった私は、それでも何とか9月の新学期には学校に登校した。Use先生が引退した後入って来たRoAnne先生はアル・ジャロウみたいな人だった。程なく、私と彼はまっぷたつに袂を分かつことになった。私にしてみれば、夏休みに何の活動もせずに新学期からの活動スタートというのは、それだけで十分許し難い愚行であり、自身が目指しているレベルとは程遠いものとなってしまっていた。彼にしてみたら、たかが高校の音楽活動なんだから、楽しくやってればいいじゃないかというスタンスだったような気が、今考えるとする。当時の私は、とにかく上へ上へとしか考えていなかったので、意見が合わないのも当然の話だろう。「高校生らしくしてろ」なんて言われた日には「なめんじゃねえぞ」と応戦していたくらいだから。が、本格的な対立は私がドラメになる翌年のことで、この時はまだ内部でくすぶっているだけではあったが。

高校2年になった私は、部の備品管理を一手に任されることとなった。一見閑職に聞こえるかも知れないが、備品管理室の主になり、部屋を好きなようにコーディネートすることができる、伝統のあるエリートコース(?)だ。エリートは冗談としても、校舎内に個室を与えられたも同然の私は非常に満足だった。やはり高校で初めて、DCIのファイナリストになった影響が大きかったのか。壁中にポスターを貼りまくり、ラジカセを持ち込み、自習時間を音楽室のアテンドに変えた私は友達と備品管理室の中でなかなかやりたい放題に暴れていた。それが許される役職だったので。。。

その後は、それ以外に目立った活動はなかった。やはり夏で酷使された影響か意外と大人しくしていたこと、あと、学業が相当負担になってきたこと、そんな理由からよくも悪くも高校生らしい生活をした、85年の残りだった。



1986・その1

年齢:17〜18歳
いた場所:アメリカ・カリフォルニア州サン・マテオ
団体名:San Mateo High School Marching Bearcats(高校2〜3年)
ステータス:幹部候補生になった(?)、英語のできない外国人

ここからしばらくは、我ながらとても高校生らしい生活をしていたと記憶している。また、人生の中で最も勉学に勤しんだ1年間でもあった。いや、勤しんだなんて生易しいものではなく、この時だけは本当に勉強した。

日本の国語にあたる、「英語」のクラスがあるのだが、高校2、3年になるとその殆どは古典や近代文学の本を読み、著者の意図や登場人物の心理など、こと細かに話し合ったり、各章の小テストをやったり、そして最後はテーマを決めてエッセイを書き提出しなくてはならないクラスになる。この「英語を読む」というのが苦痛で仕方がなく、やはりネイティブに比べるとそのスピードは比較にならない。殆ど辞書と同時進行で読み進む姿は悲惨だっただろう。ただでさえ大変なそんなクラスを、私はこの年ふたつも取っていたのだ!!

「ヴェニスの商人」「ハムレット」に始まり、「カッコーの巣の上で」「Catch-22」「怒りの葡萄」「華麗なるギャッツビー」「華氏451度」「1984」「緋文字」「ライ麦畑でつかまえて」「月と6ペンス」。。。思い付くだけ挙げてもこれだけ。それに加え、テネシー・ウィリアムスの戯曲「ガラスの動物園」や「欲望という名の電車」のロール・プレイをやらされたりするのだから、はっきり言って死んだ一年。

断っておくが、ちゃんと英語の勉強をした外国人にとっては、本を読んでエッセイを書くこと自体そんなにハードなことではない。これはひとえに、それまで英語の勉強など全くしなかった私だからハードだっただけのこと。それでも、1学期に2クラスは骨が折れる作業だったには違いない。

前にも書いたが、私が行っていた高校は英語のできない外国人を受け入れるような学校ではなかった。もし授業についていけなければ、すぐ隣町にそんな人材を受け入れる設備の整っているところがあるので、半ば強制的にそこに転校させるようなところ。これも前に書いたが、私は元々その学校に通って、我慢できなくて1週間で今の高校に転校してきた。勉強ができなかろうと、何としてでもこの学校に留まらなくてはならなかった。そのために仕方なく勉強していたものだった。

アメリカとアメリカ人の好きなところは、やる気さえあれば必ずチャンスをくれるところだ。正直、私のこの時の英語力はとてもまともにやっていくだけのものには到底及ばなかった。ただ、転校させられたくない一心でやる気だけ見せていただけだ。それでも、各学科の先生はちゃんと拾ってくれた。英語の先生は、文法の間違いだらけのエッセイを修正するために、内緒で放課後に居残り授業をしたりしてくれた。また、私とは全く関係のないクラスで、私のような外国人のことをテーマにしてパネルディスカッションをしたりしていたらしい。能力があるのに(私はないが)言語の問題でどれだけ弊害があるか、また乗り越えるためにどれだけのことをしているか。。。とか、そんなことだったらしい。後で友達に聞いた。地理の先生は、授業に役立つ簡単なサブテキストをくれた。結局私はこの高校を卒業するのだが、その間私を転校させようという話は、私が知る限り一回も先生の間からは出て来なかった。チャンスをくれたアメリカ人に、本当に感謝だ。

この年は同時に、音楽的知識を蓄積する大切な年だったのも事実。この年にDCIのレコードを買い漁り、何とか78年くらいまでは遡及して復習した。同時に、85年に一緒だったメンバーの影響をもろに受け、本格的にジャズにのめり込んでいったのもこの年。それまではロック一辺倒だったレコードのコレクションが、この時期を堺にわけが分からないラインナップになってきた。レコードは未だに家にあるが、正直今聴く気になるものは多分ほとんどないと思う。もう、寝ても覚めてもDCIとジャズ。周囲にしてみれば嫌なリスナー。でも、だからと言ってDCIに復帰したいとは、この年の始めはまだ思ってなかっただろうなあ。